臓器移植と脳死の問題について。

臓器移植と脳死の問題
日本においても脳死患者から臓器移植が行われたことにより臓器移植による関心が国民に広まりました。そして、脳死がほんとに人の死なのかどうかという問題や脳死患者の家族の心の問題や脳死の患者の意思を無視して臓器移植が行われていることなどの問題など
さまざまな問題が臓器移植にはふくまれているだなとおもいます。脳死患者における臓器移植がなぜ多くの問題をよぶのかについてふれて閾値と思います。
いままでの人の死の基準は三徴候死といわれており、呼吸停止、心肺停止、鼻孔の散大固定である。つまり、上記の状態から回復しないかぎり死をむかえたと判断されていたのである。医療技術の進歩により人工呼吸器をつければ機械の力で呼吸し続けれるということができるようになり、呼吸をしていることを生きているというふうにとらえているため
人工呼吸器を装着しているかぎりは脳が死んでいる状態でも生きているという風に扱われたのである。そして呼吸器を外せば死んでしまうという状況にある場合、その人が生きているのかいきていないのかを判断する場合は脳がしっかり機能しているのかというところで判断することになっています。そして、脳死の人の臓器を移植したおかげでたすかった人もたくさんいますが、その一方で脳死と判断された人は自分の意思を無視され、医者が脳死と判断し遺族が臓器移植をすると判断されたら、勝手に自分の臓器を移植され、そしてしらない間に命を奪われてしまうということにつながってしまう。つまり、臓器移植とはどちらか一方が死なないかぎりどちらか一方がたすからないという問題をふくんでいるのである。
脳死による臓器移植を賛成する理由としてあげれるものとして臓器移植をうけたものの命が助かるというものがあるが、自分の生を維持するためにその他の人の命を犠牲にしていきたいのかという問題もある。簡単にいうと臓器移植なんてものは人を殺したあとに人の臓器を取り出し、患者に移植するという恐ろしい行為である。臓器を提供したものの命は切り捨てられ、臓器をもらいうけたものだけが生きることをゆるされるというものである。そう考えた場合、臓器移植を行った場合、移植することにより人の命を奪っていることになる。要するに臓器移植とはだれかを犠牲にしてでも自分は生きたいという傲慢な人間がいる限りは決してなくならないし、キリスト教の観点から考えてもだれかのために自分を犠牲にして役に立ちたいという考えは臓器移植を受けたものには欠如している。
なぜ欠如しているのか?というと自分が助かりたいという思いで脳死の人がまた脳の機能を取り戻すという可能性を否定し、臓器提供を受けようとするからである。臓器提供の患者が生きたいと思えば思うほど脳死という現代医療で死んだと決めつけられた人は命を奪われていくのである。
脳死患者は生きているだけで何の役にもたたないという風に考えられていると風潮のせいで臓器提供が行われているといっても過言ではない。人の命を役に立つか役に立たないかという基準でみると脳死患者のようにベッドで横になっている命は労働もできないので
社会的には役にたたないという風にみられてしまう。それに対しドナーを貰い受ける側は臓器を提供されれば社会復帰もでき労働もできるので役に立つという風にみられる。
そういう考えがあるからこそ臓器移植がおこなわれているのではないだろうか?
結局役に立たないから人の命を奪い、役に立つ可能性のある人間に臓器を提供するべきだとう考えが臓器移植という医療の根本にあるのだということはぬぐえない。キリスト教においてはだれしも命の価値は平等であるにも関わらず、医療の現場においては子の人間は役に立つのか役に立たないのかという判断基準において臓器移植というものがおこなわれているということは誠に残念である。要するに現代社会では人の命は平等ではないのである。
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